memory





 ある日、簾は揺れた。

 響く人の呼吸音など疾うの昔に消え去り、外の人
間の眼中にさえも入らない、サビレタ洋館があった。
 廃墟? 廃家? 廃屋? 蔦に縛られるという
外装?
 すべてが、記憶とは違うものだった。もう少し、
現代を思わせる色があった。あの頃は、もう少し輝
いていた。

「きえる」

 この洋館は、いつしか消える。
 お父様、お母様、おじい様、おばあ様、弟も二人
いて、賑やかでしかなかったこの洋館は、きっと消
えてしまう。確かにある世界からも、記憶からも。

「……どうしましょう」

 とりあえず自室へ向かった。その部屋は階段を上
がって、長く続く廊下の突き当たりにある。扉を押
し開ける。ふっと香るのは、血の匂い。幻でしかな
いが懐かしい匂い。

「……どうしましょう」

 簾が落ちていた。西洋の雰囲気漂う中、一つだけ
の和のものが落ちていた。

「どうしましょう」

 窓まで駆け寄り簾を手に取る。過去、この簾に部
屋を照らしていた光は程好く遮られ、快適な明るさ
を保っていた。丸裸になった窓からは、眩しくて世
界が見えないほど光が顔を覗かせていた。思わず、
目を閉じる。

「どうしましょう」

 世界と一緒に、いずれは部屋も見えなくなってし
まう。光に塗れて、


 どうしましょう。



 一度目を覚ましてしまうと、パジャマの湿り気と、
気温の高さに耐え切れず、二度寝など考えられなく
なる夏の朝、一葉(ひとは)は不思議な夢を見た。
 懐かしさを感じさせるような、全体的に黄色掛か
った絵が魅力的でもあり、また、どこか恐怖に似た
ものも感じる夢は、なかなか一葉から消えずにいた。


 この、きもちは何と言えばいいのだろう。どう言
えば伝うものなのだろう。
 今も夢から覚め切れない身体のままでいる。教師
が呪文のように一定音で説く数式を、そっと目を閉
じて聴いていた。

 あの夢が、一段と不思議なものだと感じたのは、
下校途中に友達が話してくれた怪談という名の噂
を大人しく聞いているときだった。
 今は空き地となっており、隣にある小さなスポー
ツ店の仮の駐車場として使われているところが舞
台。 
 そこには、六十年前まで古く大きな洋館が建って
いたらしい。(生憎、私の両親や祖父母、共にここ
の出身では無いので、本当にその洋館があったのか
を確かめる術は無さそう)その洋館の外壁には、ビ
ッシリと言っていいほどに蔦が這っていた。気味悪
く。
 その時点で、私の中で、あの声が甦った。

 どうしましょう。

 何を見ているわけでも無い視線を投げる友達に、
もう止めてくれと言いそうになった。私は怖がって
いる。この洋館の話を怖がっている。

「それでね、ある日、そこに住んでた家族が」

 私は耳を塞いだ。遠くに鳴る彼女の声は、妙に高
く、澄んでいた。

 きえたんだって。

 何も見ていない彼女の目には、私も映らない。こ
の拒否している姿も見えていないから、何かに取り
付かれたように延々と話し続ける。

「きえたまま、姿を現さないの。私たちと同世代の
女の子もいたんだけど、その子も。もしかしたら、
その子の父親の都合で無理心中でも謀ったんじゃ
ないかって噂だよ」

 私は立ち止まった。夢の不思議な雰囲気とは違う、
また違う不思議なものを感じた。
 既視感とでも言うのだろう。何か懐かしい。まる
で、その少女になったかのように、そのときの気持
ちの予想がつく。且つ、鮮明にも霞んでも見える情
景が浮かんだ。

「一葉ちゃん、だいじょうぶ?」

 彼女の瞳に、耳を塞ぐ私の姿が映った。よかった、
私のことが見えている。よかった。
 私の手首を掴む手は冷たかったが、それは確かに
現実のもので、もうひとつオマケに喜べるものだっ
たが、私はその喜びを感じることが出来ずにいた。

「ここ、ここ。その洋館があった場所」

 彼女があいている方の手で差したのは、『のはら
スポーツ』の右脇、空き地。
 とたんに、走り回りたい衝動が身体を走った。い
くら走っても終わりが見えないのではないかとい
うほど、広い土地なのだ。ほんと、広い。


 私には、わかる。みえる。
 ある少女の部屋には、浮いているものがある。ふ
わふわと浮いているのではなく、部屋の造りと、周
りの小物との釣り合いが取れていない、浮いている。

「どうしよう」

 私には、わかる。みえる。
 見えてしまったのだから、仕方がない。

「一葉ちゃん、どうしたの」

 手首を掴む手は、まだ冷たい。
 たぶん、その少女の手も、今は冷たいだろう。

 少女は夢と同じく、簾を持っていた。だが視点が、
違う。私は、あの少女から見ていた。あの位置から、
光で見えない世界を見た。

 私は、目を塞いだ。

 ごめん、消えてる。
 この洋館のこと、守れずに消しちゃった。


 いつだったか、拾った簾を、抱きしめたくなるほ
ど愛しく思えた日々は、昭和。周りは平屋だった。
私には、この洋館が一番空に近い場所に在ると信じ
ていて、たぶん、それは確かなこと。
 簡単に、空へ行けた。空も越えた。
 私は、その途中にうっかり大事な簾を落としてし
まった。すぐに取りに戻ったつもりだったけど、そ
の世界は随分と歳をとっていた。
 簾のない部屋は明るすぎて、世界が見えなかった。
いつか、この洋館も、その光に呑み込まれるんだと
わかった。


 ある日、簾は揺れた。

 洋館が在った場所で、簾は揺れる。
 風の無い世界で、簾は揺れていた。
 記憶に無い洋館と世界の中で、簾は揺れた。


















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公開日  2007.8.30
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